源平合戦古戦場の八割を楽しめる むれ源平合戦エリアで弾丸観光しよう!

源平合戦古戦場(牟礼) 弾丸マップ

源平合戦古戦場の八割を楽しめるエリアがココだ!

佐藤継信の墓から祈り岩までの歩き方とマップを紹介します!

このルートで行けば、約一時間ほどで弾丸旅で源平合戦の古戦場・史跡を巡れます。時間がない方におすすめです。

この旅は、歩きか自転車が最適です!車の場合は駐車できない史跡もありますので注意!

夏休みの自由研究にも役立ちます!きっと一日でまわって編集もできると思う!

源平のストーリーを源平ストリート(通り)でまわる!

という自由研究のテーマ・題名はいかがでしょうか?

源平合戦古戦場(牟礼) 弾丸マップ

源平合戦古戦場(牟礼) 弾丸マップ

むれ源平の古戦場(クリックで拡大)

この地図は庵治石で出来ています。すごいですね。庵治・牟礼は石で有名な町なんです。

約1キロメートルの間にこんなに源平合戦の史跡が集中しています

約1キロメートルの間にこんなに源平合戦の史跡が集中

▲クリックで拡大!源平合戦古戦場 史跡の集中地帯です!

①~⑧ 源平合戦 牟礼 おすすめマップ

源平合戦古戦場(牟礼) 弾丸マップ

①~⑧の順番でまわると快適に源平合戦 牟礼 エリアを観光出来ちゃいます!このおすすめマップの通り進めば間違いなし!

むれ源平合戦古戦場 史跡巡りオリジナルマップ

 

むれ源平合戦古戦場 行き方順序・順路

ではスタートしましょう!

県道36号線 八栗駅から南に行ったところに信号機付きの交差点があります。

県道36号線 八栗駅から南に行ったところに信号機付きの交差点

八栗駅へ向かう36号線には映画「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケ地として有名な庵治への案内板が見えます。

川が流れているので川を見つけましょう!

むれ源平合戦スタート地点

▲川ではなく、少し大きめの用水路かもしれない。なぜなら地図に載っていない!

ちなみに右奥に見える森のようなところが「神櫛王墓」の敷地です。

さらに!右端で見切れている林のようなところが「佐藤継信の墓・太夫黒の墓」なんです。

この景色の背中側に源平合戦史跡の道標が立っています!

源平合戦史跡 道程

▲源平合戦史跡の道標

佐藤継信の墓までは100メートルと書かれています!

ちなみに、その横の「菜切地蔵」までは700メートルと書かれていますが、ひまだったら、後で行ってください。

このよう水路沿いに行って、国道11号線に当たって、それを超えて、少し行ったところを右に曲がると近くにまで行けます。少し迷うかもしれません。(この説明だとだいぶ迷いそう)

というか、「菜切地蔵」の前に「長刀泉」というのがあります!

①神櫛王墓・佐藤継信の墓・太夫黒(たゆうぐろ)の墓

話がそれまくりましたがようやく①の近くにまできました!

神櫛王墓(かみくしのみこのはか)

神櫛王墓(かみくしのみこのはか)入口

▲ここが神櫛王墓(かみくしのみこのはか)の入り口です。

12代の天皇である景行天皇の皇子で神櫛王の陵墓として宮内庁が管理しています。

奥に進むと左わきに立て看板があります!

神櫛王の陵墓として宮内庁が管理

▲何と書いてあるかというと。。。

景行天皇皇子

神櫛王墓

一.みだりに域内に立ち入らぬこと

二.魚鳥等を取らぬこと

三.竹木等を切らぬこと

宮内庁

入るのをためらってしまうような注意書きですね。

この墓所に祀られている神櫛王(かみくしおう)は、第十二代天皇「景行天皇」の第十七皇子にあたります。ちなみにですが、上の兄弟には、第二皇子として日本武尊(ヤマトタケル)がいます。

さらに進みます!

神櫛王(かみくしおう)大塚古墳

ここから先は進めないようになっています。

ずっと先には、階段と門があって、その奥は石が山積みになっているだけです。

神櫛王墓 墓碑

左側には神櫛王墓 墓碑があります。てっきりこれが、メインかと思っていたのですが、じつは、先ほどの石積みになったところが神櫛王墓らしいんです。

なんでも、上円下方墳という古墳になっているそうです。古墳名でいうと「大塚古墳」というらしいです。

先ほどの写真で鳥居みたいなのが見えたと思うのですが、その奥にうっすら見える石積みがお墓(古墳)だそうです。全くそうは見えなかったのでスルーしてしまいました!しまった!!

ということで!後日、もう一度、撮り直しに行ってまいりました!

神櫛王墓

▲近くまで入ることが出来なかったので、ズームで撮りました!

たしかに、こんもりと石が積み上げられています。これが神櫛王墓のようです。今立っているところも含めて、この丘陵自体が古墳のようです。

※ちなみにここは源平合戦とは関係ありませんので、実際には①ではありません。でも佐藤継信のお墓の隣なので必ず寄っておきましょう。

佐藤継信の墓

佐藤継信の墓

ココが①です!やっとかよ( ;∀;)

しかし、見ての通り、黒い門が閉まっていて入れません。

敷地内にはお墓だけでなく石碑や燈篭などがいくつも見えます。

佐藤継信の墓・太夫黒の墓を見つけました

門の左側に佐藤継信の墓・太夫黒(たゆうぐろ)の墓についての説明看板が立っていました!

読みにくいのでもっと寄ってみましょう。

佐藤継信の墓・太夫黒(たゆうぐろ)の墓

▲佐藤継信の墓・太夫黒(たゆうぐろ)の墓の説明板!

佐藤継信の墓の説明文 要約

ここは源平合戦の際、義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信のお墓です。
寛永二十年、松平頼重公が新しく墓石を建て、その忠死を称えました。
“胸板を据えて、忠義の的に立ち”
実際に射られて落馬した場所は、この後説明する「射落畠」のところです。

太夫黒の墓の説明文 要約

太夫黒のお墓は継信の墓域内の右奥にあります。
太夫黒は、もと後白河法皇から義経がもらった馬でした。
義経は継信の忠死に報いるため、この大事な馬をお布施として、志度寺の覚阿上人に渡し、丁重に弔わせたということです。
後日、太夫黒が亡くなった時に、ここに埋めたと言われています。

太夫黒は亡くなる時に、自らこの場所に来て、ひっそりと息絶えたと伝えられています。なんかすごいですね。

佐藤次信墓

門からすぐ右に背の高い墓標らしきものが見えます。

標石の表は「佐藤次信墓」とかかれているとの前情報をもって来所しました!

なるほど。佐藤。。。信之墓とかかれていますが、うん?

ちょっと名前が違いますね。

もう少し寄ってみると。

佐藤次信墓の公園

ちょっと名前が違いますね。じつはこれは佐藤継信のお墓ではありません。この敷地内のもっと奥にあります。

そして太夫黒のお墓も奥にあります。

ということで黒い門を押してみると。。。なんと開きます!ドアのような感じですね。押して入るみたいです。中はベンチがいくつもあり、庭園の様な通路も整備されています。

本物の佐藤継信のお墓

本物の佐藤継信のお墓

手前の墓標には「佐藤次信」とかかれています。その後ろに五輪の石の墓塔(五輪塔)があります。五輪塔はとても古く見えます。昔のお墓はこんな感じだったのかな。と思いました。

太夫黒(たゆうぐろ)の墓

太夫黒(たゆうぐろ)の墓

きれいなお花が供えられていました。太夫黒(たゆうぐろ)はお墓まで作ってもらって、うれしいんじゃないでしょうか☆きっと天国で喜んで駆けまわっていると思います♪

公園内はとても綺麗に保たれているので、誰かのおかげだと思います。感謝です。

②射落畠(いおちばた)

射落畠(いおちばた)の碑

射落畠(いおちばた)の碑です。

射落畠(いおちばた)の立て看板

射落畠の説明看板です。

寿永四年二月十九日(1185年)
源平合戦の際、源氏の武将「佐藤継信」が大将義経の身代わりとなって、矢面に立って、平家の雄将能登守教経の強弓によって射落とされた場所です。

遠祖君乗馬薄墨碑

▼これは射落畠の碑を真横から撮った写真なのですが、後ろ側(画面左)にある石碑が「遠祖君乗馬薄墨碑」です。

遠祖君乗馬薄墨碑

薄墨は義経の愛する名馬でしたが、継信の菩提を弔った僧にお布施として寄贈されたということです。

もう、お気づきの方もいると思いますが、薄墨という馬は「佐藤継信のお墓」のところで説明した太夫黒のことです。

佐藤継信顕彰碑

佐藤継信顕彰碑

この地は源義経の四天王の一人である佐藤継信が戦死した場所です。
継信は鎮守府将軍「藤原秀郷」の後裔にして藤原秀衡に従う。
信継は若くして知略兵法に通じ、豪男として名をはせていました。
源義経 陸奥に来て秀衡の批護を受け後頼朝挙兵を援けるため都に上るに際し、
父の命により継信 忠信の兄弟もこれに従う。
連戦して平家を追い屋島壇(檀)ノ浦にいたり、
敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年二十八才

③総門跡

総門跡の石碑

石碑には「源平合戦総門碑」と書かれています。

総門跡の敷地

総門跡の敷地です。よーく見てください。画面中央に木で出来た鳥居の様な門が見えますか?コレが総門跡です。昔はもっと頑丈で高さももっとあったんじゃないかな。これだと馬に乗った人はくぐれませんね。

総門跡の敷地内の立て看板

敷地内にある総門跡の説明看板です。

総門跡 説明文拡大

最大フォーカスで説明文を読みやすくしてみましたが、上下が若干切れています。(;^_^A

総門 説明文 要約

寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島壇の浦の行宮のできるまで)ここで、門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺跡です。
のちに、壇の浦に行宮をうつしてからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、遂に源氏に占領されました。当時この辺りは、海浜であったということです。
標木は高松藩主松平頼重が建てたものです。句碑は野津大将題、黒木欣堂撰。もう一つの句碑「夏草や」は久保不如帰氏作のものです。

総門跡の敷地内の石碑

総門跡の敷地内の石碑。お遍路さんのことを詠んだ句碑ですね。

「お遍路の 行きつつ 髪を束ねけり」

久保五峰

総門跡の敷地内の石碑②

総門跡の敷地内の石碑。コチラも句碑です。

「夏草や ここにもひとつ 髑髏(されこうべ)」
久保不如帰

④義経弓流し跡

義経弓流し跡

義経弓流し跡の道標が立っている場所なんですが、とっても細い路地にあります。

義経弓流し跡

ここかよ!って思うような場所に説明看板が立っています。

義経弓流し跡の説明看板

弓流しの跡 説明文 要約

源平合戦の際、義経は勝ちに乗じて海中に入って戦っていくうちに、脇下に、はさめていた弓を海中に落としてしまいます。
平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく海中に落ちかかりました。
義経は太刀で熊手をはねのけ、左手の鞭で弓をかき寄せ引き上げたということです。
義経が一生懸命になって弓を拾った理由としては、平家側に拾われてしまったときに「源氏の大将とあろうものがこんな弱い弓を使っているのか」と笑いものになるのを嫌ったためだと言われています。

⑤洲崎寺

洲崎寺

洲崎寺の外壁にこの「むれ源平の古戦場」地図があります。

この地図を撮った場所なので「現在地」がマッチしています!

▼洲崎寺についてはコチラのページで詳しく書きました!

このあたりは、「むれ源平 石あかりロード」と重なっています。石あかりロードは、もともとは、地域活性化の一環として、この源平古戦場を分かりやすく親しみをもって周ってもらうためにつくられたロードです。

⇒「むれ源平 石あかりロード」の記事はコチラ

INFO むれ源平合戦古戦場折り返し地点

さきほどの洲崎寺の地図板があるところから真っ直ぐ北へ進みます!

那須与一の扇の的はライオンの様な顔が目印

▲突き当りが三叉路になっています。徒歩は突き当りを超えることが出来ます。

那須与一の扇の的はライオンの様な顔が目印です。

むれ源平 石あかりロード石碑

その手前左側には「石あかりロード」の石標が建っています。ここには無料駐車場があります。

もくもく遊らんどとらいある

さらに左には木像のオシャレな建物が建っています。「もくもく遊らんどとらいある」さんです。

げんぺい観光案内所

「もくもく遊らんどとらいある」さんには、げんぺい観光案内所が併設されています。ちょっと迷ったかな。と思ったらココで確認するといいですよ♪

さらに左にそれると与一公園があります。南北に長い公園です。

与一公園 源平合戦ガイドマップ

与一公園にある源平合戦マップ。ここでも庵治石が使われています。ここは石の町です。

ちょっと随分と左(西)にそれたので、元の場所に戻します!

そう、ライオンの像の前に!

源平 石あかりロード 素敵なモニュメント

真実のライオン像

真実の石」。口に手を入れる穴が開いてます。石あかりロードのイベント中にはおみくじが入っていたりします。

アキホタタ「Fantasia・謳」

牟礼町の意思の彫刻家として有名なアキホタタ(ご夫婦)さんの作品で「Fantasia・謳」 です。とても素敵ですね。何も考えずに見ていると何だかわからないんですが、これはきっと那須与一の扇の的をイメージさせる「扇」ですね。(アキホタタHP)

与一橋

さっきの2つの石像の背景に石の柵が見えていたと思うんですが、これが「与一橋」です。

そしてこの真横の通路に。。。

源平合戦 案内標識が道に。

▲この2つの石像のモニュメントから北に行くと「駒立岩」。

東に行くと「祈り岩」。南へ、来た道を戻ると「総門跡」です。

⑥駒立岩へ

それでは北へまっすぐ!駒立岩に向かいます!

那須与一扇の的「駒立岩」へ続く道

那須与一扇の的「駒立岩」へ続く道!

左側に「祈り岩」というのが見えます。先ほどの案内板では右(東)へということだったんですが。。。

那須与一扇の的「駒立岩」へ続く道

イイ感じの岩があります。古い史跡っぽいですね。

レプリカ 祈り岩

これが、与一が祈りをささげたという。。。

レプリカ 祈り岩①

これが祈り岩か。。。と思ってみていたら。。。

レプリカ 祈り岩②拡大

なんと!「レプリカ」の文字が!だまされるとこやった!

皆さんも気を付けましょう。これは偽物です。作りモノです。しかしこれは本物っぽいわ。石垣に埋まってる所なんか、石垣を作る前からあったような感じやし。

おまたせしました駒立岩です

駒立岩

駒立岩に到着!引き潮だったのでよく見えます。

駒立岩

近くに寄ってみました!道標が達筆すぎて「・・立岩」としか読めませんね。

駒立岩

少し角度を変えてみました。

駒立岩の説明看板

駒立岩の説明看板です。

源平合戦の際、那須与一が祈り岩で神明に祈願を終え、海の中のこの岩まで駒を進め足場を定めて、波に揺れ動く船のお扇の的を見事に射落としたので「駒立岩」といわれています。

「那須与一扇の的」の扇が立ってた場所

駒立岩から屋島の方を向くと正面に!!

那須与一扇の的

なんだろう?広告看板が立ってる。

もっとズームで撮ってみよう。

那須与一扇の的

なんと!ここが昔、お扇の的があったとされる場所なんですね。駒立岩からおよそ50~70メートルくらいありそうです。

確かに海の上の船の上なので、石碑が立つのもおかしいですね。

大体このあたり、という場所に看板が立てられています。奥に見えるのは屋島です。

現在は水門になっています。昔はここは海だったんですね。この地域は埋め立てられてできたようです。

先ほどの駒立岩から10メートルくらい北に神社があります。

久通浜塩釜神社

久通浜塩釜神社

久通浜塩釜神社という小さな社です。名前が久通浜塩釜神社ということで、「塩釜」という文字が見えます。昔この辺りは塩田であったことが関係しているのかもしれませんね。

では、駒立岩から先ほどの2つのモニュメントがあった三叉路に戻り、祈り岩を目指して東へ向かいます!

⑦祈り岩

そしてこれが本物の祈り岩です!

本物の祈り岩

引きで撮ってみます。

源平合戦史跡「祈り岩」

レプリカと随分違う気もしますが。。。コチラが本物です。

祈り岩 真上

上から撮ってみると祈り岩の上に小銭が見えます。投げ銭がされているようです。

祈り岩説明文

祈り岩 説明文 要約

源平合戦のとき、那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射るときに、この岩のところで、「南無八幡大菩薩、わけても、わたしの生まれた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくば、あの扇の真ん中を射させ給え」と祈ったと伝えられていることから、「祈り岩」と呼ばれています。

石碑に刻まれた「いのり岩」の字は松平頼重公の臣箕輪野六の書と伝えられています。

※祈り岩の前は県道36号線です。写真撮るときは注意しよう!

祈り岩から南を見ると左手側に次の「景清 錣引跡」を確認できます。

⑧景清 錣引(しころびき)跡

景清 錣引(しころびき)跡

しころびき跡。何のことかわかりませんね。この場所は車が結構通る県道36号線沿いにあります。車を駐停車すると邪魔になるので注意が必要です。

少し引きで撮ってみます。

景清の錣引(しころびき)の跡

こんな感じです。写真を撮ったり説明文を読むときは注意してくださいね。

景清の錣引(しころびき)の伝説

錣(しころ)とは兜の後ろについているスカート状のモノです。これで後ろからの攻撃に対して後頭部や首を守っていたんですね。

景清の錣引(しころびき)の伝説

景清の錣引(しころびき)の伝説について

源平合戦の一騎打ちの物語。太刀を折られて逃げる源氏の美尾屋(みおや)十郎のカブトを平家の悪七兵衛景清が熊手で引っ掛けて強い腕の力でカブトの錣を引きちぎりました。
景清の剛勇さと十郎の首の強さをお互いに称賛し合ったと伝えられています。

いかがでしたか?

この錣引きで今回紹介したルートはすべて見終えました!

早く周るには自転車が一番最適です。原付もいいかも。不便なのは自動車です。

もし自動車出来たのであれば、与一公園横にある、あかりロード前の駐車場に停めて徒歩でまわるのがおすすめです。

以上、むれ源平合戦古戦場 弾丸ライナー旅でした!

参考になれば幸いです♪

むれ源平合戦古戦場 史跡巡りオリジナルマップ

 

むれ源平合戦古戦場 史跡巡りアクセス

琴電八栗駅レンタサイクルあり

この旅の起点は「ことでん八栗駅」がベストです!八栗駅に名はレンタサイクルがあります!

県外から来られる場合は、JR高松駅から歩いて「ことでん築港駅」にいって、志度線に乗れば八栗駅まで来れます♪

屋島東側【源平合戦古戦場】史跡巡りはコチラ

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