屋島東側【源平合戦古戦場】史跡巡り(菊王丸の墓・安徳天皇社・佐藤継信の墓碑)

安徳天皇社 遠景

屋島東側【源平合戦古戦場】史跡巡り

https://genpei-mure-yasima.kaguii.net/wp-content/uploads/2020/02/204891.png
さぬきじん

今回は、源平合戦古戦場巡りをするうえで、効率的に回れる、屋島東側の史跡をご紹介します!

https://genpei-mure-yasima.kaguii.net/wp-content/uploads/2020/02/204891.png
さぬきじん

菊王丸の墓、安徳天皇社、佐藤継信の墓碑の順に巡るのがベストです。

観光として巡るのであれば、自転車かバイクがおすすめです。八栗駅にレンタサイクルがあるので、それを利用するのもありだと思います。そして、道幅にゆとりがないので行き過ぎないようにスピードは控えめに行きましょう。

菊王丸の墓

菊王丸の墓 遠景

屋島東小学校の隣にあります!通り過ぎやすいので注意!グリーンのフェンスが見えたら止まって下さい!

菊王丸の墓です

菊王丸の墓です。合掌。

菊王丸の墓の説明看板

菊王丸の墓の説明看板です。

菊王丸の墓について

源平合戦(1185)のとき、源氏の勇将 佐藤継信は、大将である義経の身代わりとして能登守教経の強弓に倒れました。そのとき教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆け寄り首を切り落とそうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟 忠信の弓矢によって倒されました。

菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息を引き取りました。教経は菊王丸をあわれんで、この地に塚を建て葬ったと伝えられています。

安徳天皇社

安徳天皇社 遠景

安徳天皇社の正面です。手前の道路が少し広くなっています。

安徳天皇社

寿永2年(1183)、平宗盛は、安徳天皇を奉じて、一の谷から屋島に来ました。ここは、壇の浦の入り江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。

安徳天皇社

中に入ってみました!鳥居の向こうが神殿です。

安徳天皇社

安徳天皇の文字が見えます。

安徳天皇社

安徳天皇社の敷地内にこのようなお堂のようなものもありました。中には畳の部屋でお地蔵様が座っていました。

三界萬霊供養塔

安徳天皇社の奥にある石碑

安徳天皇社の奥に石碑がありました。うしろには石が積まれています。ミステリアスな雰囲気がしました。

石板に書いてある文を読むとこんな感じです。

寿永四年二月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、
滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。
この戦いで散ったつわものたちの墓があちらこちらに散らばっていたものを、いつのころからか里人たちが、安徳天皇ゆかりのこの社の本殿裏に集められていたものを、この地へ移設のうえ供養したものである。

謎めいた石たちは合戦で散っていた武士たちを里のものが供養のために設置したんですね。

佐藤継信の墓(碑)

佐藤継信の墓(碑)への道

安徳天皇社から屋島に上がるように進むとココに辿り着きます。1本道ですが脇にそれる細いあぜ道などもあり少し不安です。道標が見えたら、左に折れます。画面ではこの手前に左折する道があります。

佐藤継信の墓(碑)の遠景

左折して進むとお地蔵さんがたくさん並んでいる場所に遭遇します。

ここが佐藤継信の墓(碑)がある敷地になります。

佐藤継信の墓(碑)の敷地

佐藤継信の墓(碑)の敷地入り口から撮影。

佐藤継信の墓(碑)の説明板

佐藤継信の墓(碑)の説明板

佐藤継信の墓について

継信は、寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将、能登守教経の強弓により、大将義経の一命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討ち死にしました。

この信継の忠誠心ある死を広く世に知らしめるために、寛永20年(1643年)初代高松藩主であった松平頼重公が、合戦当時に義経が丁重に葬った後を受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍らに建立したものです。

また、墓は牟礼町王墓に残っています。

https://genpei-mure-yasima.kaguii.net/wp-content/uploads/2020/02/204891.png
さぬきじん

ここで疑問が浮かびます! 「佐藤継信の墓の説明板」なのに、文末に「墓は牟礼町王墓に残っています」と書かれています。

ちょっとおかしいですね。この疑問についてはまた、のちほど解説しようと思います☆

佐藤継信の墓(碑)

佐藤継信の墓(碑)です。寛永20年(1643年)に高松藩初代の松平頼重によって建てられました。合掌。

▼佐藤継信の墓はコチラのページもご覧ください。

源平合戦古戦場(牟礼) 弾丸マップ 源平合戦古戦場の八割を楽しめる むれ源平合戦エリアで弾丸観光しよう!

佐藤継信の墓はなぜ2か所にあるのか?

さきほどの、 「佐藤継信の墓の説明板」なのに、文末に「墓は牟礼町王墓に残っています」と書かれています。の解説です。

①屋島寺へ続く遍路道の傍らにある「佐藤継信の墓」

このページで紹介している 「佐藤継信の墓」です。84番札所屋島寺と85番札所八栗寺をつなぐお遍路道の途中にあります。

佐藤継信の墓(碑)

▲右わきに「佐藤継信の墓」と書かれています。(屋島東町)

寛永20年(1643年)に建てられました。

コチラの墓は、自分の上司のために忠死した、武士の鑑(かがみ)である佐藤継信の存在を知らしめるために高松藩初代の松平頼重が、部下や遍路道を歩く他方から来られたお遍路さんに、そのことを伝えるために。さらに他方に帰っていったときに広めてもらうために建てたと思われます。

つまり、遍路道として人通りが多いこの場所を選んで、四国を巡っている人たちに「佐藤継信」の忠死を広く知らしめるために作った墓碑です。

②王墓横にある「佐藤継信の墓」

本物の佐藤継信のお墓

▲佐藤継信の墓(牟礼町)うしろには五輪の石の墓塔があります。

この地にも佐藤継信の墓があります。84番札所屋島寺と85番札所八栗寺をつなぐお遍路道からは逸れています。

寛永20年(1643年)に初代高松藩主松平頼重によって新しい標石が建てられました。

標石の裏面には「寛永癸未仲夏上浣建之」(寛永癸未は1643年、仲夏は陰暦の5月、上浣は上旬のこと)とあります。つまり寛永20年(1643年)です。

その昔はこの裏にある王墓池(現在の平田池)の近くにあったとされていますが、、、

正保2年(1645年)にこの地に移されています。

ここが本当の佐藤継信のお墓でしょう。

どちらの「佐藤継信のお墓」も初代高松藩主 松平頼重が建てたことになっていますが、こちらのお墓の標石は新しく「寛永20年(1643年)に建てた」となっていて、その後ろに「五輪の石の墓塔」があります。コチラの石を積み上げている方が年代的にみて古い形式のお墓だと思われるので、これが当時のお墓のだと思います。

そして総門や射落畠(佐藤継信が射られて落馬した場所)、佐藤継信の菩提寺である洲崎寺が近いことや、同じ敷地に義経がお布施としておくった太夫黒という馬のお墓もあるのです。

さらに、佐藤継信の子孫、継信30世の子孫である佐藤信古が昭和6年(1931年)に、この地の整備を行い、佐藤氏念祖碑や鎌田兵衛慰疑塚碑まで、この地に建てています。

子孫が手厚く手をかけているお墓なので、やはりココが本物ではないでしょうか。

決定的な証拠!継信の菩提寺「洲崎寺」の石板

継信の菩提寺「洲崎寺」の石板

▲継信の菩提寺である「洲崎寺」の壁にこのような石板があります。

ココには、佐藤継信の墓が、当寺の南方600メートルのところにあると記されています。まさに、王墓横の佐藤継信の墓がこの位置にあたります。

遍路道の傍らに建てた「佐藤継信の墓」の方は、佐藤継信の功績を後世に引き継ぐために、広告塔・功績碑の意味があって建てられたんだと思います。

2つの佐藤継信のお墓の位置関係

 

屋島東町の遍路道にある「佐藤継信の墓」だけは、ポツンと離れています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。